特集:ホラー秘宝まつり

今年で初開催から8年目を迎え
観客参加型のホラー映画祭として
もはや夏の風物詩ともなった【ホラー秘宝まつり】
2021年度・充実のラインナップはこちら!

※【閲覧注意!】「夏のホラー秘宝まつり2021」ロングバージョン予告編《WEB限定》

ルチオ・フルチ大特集!

強烈な人体破壊描写と全編に流れる耳障りなノイズ… “マスター・オブ・ゴア”と称され、
ジョージ・A・ロメロと双肩を成すゾンビ映画監督ルチオ・フルチ。
日本初紹介作品を含む彼の名作・傑作選(13本)をラインナップ!

ビヨンド
<4Kレストア版>

古びたホテルの地下に隠されていた冥界と現世を繋ぐ扉をめぐり、無気味で凄惨な事件が巻き起こるスプラッターホラー。フルチが得意とする“地獄門の決壊”がテーマの一本。ルイジアナにある屋敷を相続したライザは建物の修繕に取りかかるが、現場では凄惨な事故が続発。怯えるライザに対して盲目の美女エミリーは屋敷を手放すよう警告する。かつてこの屋敷で地獄の門を開けようとして住民たちのリンチを受け惨殺された画家が、怨念となり再び現れようとしていた…。

地獄の門
<4Kレストア版>

神父の自殺という背徳行為により、地獄の門が開いた町で繰り広げられる凄惨な光景を描くゾンビホラー。ニューヨークで降霊会に参加していた霊能者のメアリーは、ダンウィッチの墓地で自殺する神父・トーマスの姿を霊視する。その神父の目的とは、冒涜行為により地獄の門を開くことだった。ショック死し葬られたメアリーは棺の中で蘇生する。新聞記者のピーターに救出されたメアリーは地獄の門を閉じるべくダンウィッチへ赴くが、そこは既に死霊の町と化していた…。

墓地裏の家
《4Kレストア版》

『サンゲリア』など血まみれ3部作に並ぶルチオ・フルチの残酷ホラーの代表作。ニューイングランドの古い一軒家に引っ越してきた歴史学者ノーマンとその家族。周囲を荒れ果てた墓地に囲まれ異様な邪気を放つその屋敷は、かつてフロストステイン博士が屋敷を訪れた者を次々と手にかけ人体実験を行っていた場所だった。屋敷に秘められたおぞましい真実が明らかとなり、惨殺事件が連続して巻き起こる。残酷シーンのオンパレードの名作ホラー。

ドキュメンタリー作品

フルチトークス

今年3月に没後25年を迎えた偉大なホラー映画監督、ルチオ・フルチのセルフポートレートや、映画監督のアントニエッタ・デ・リッロ、批評家のマルセロ・ガロファロとの会話で構成されたドキュメンタリー。死の直前に彼が語った作品への思いや監督として、そして1人の男としての彼の姿とは…。

フルチ・フォー・フェイク

ルチオ・フルチについての証言を集め、イタリア出身の映画監督サイモン・スカフィディにより制作された伝記的ドキュメンタリー。『墓地裏の家』に出演したパオロ・マルコ、『サンゲリア』『地獄の門』の作曲家ファビオ・フリッツィ、フルチの娘であるアントネッラ・フルチ、カミラ・フルチらが彼について語る。

About Lucio Fulci 
ルチオ・フルチ

『サンゲリア』『地獄の門』『ビヨンド』の血みどろ3部作で、ホラー映画界のアイコンとなった、イタリア・残酷ホラー映画の帝王。1927年6月17日生まれ。国立映画実験センターを卒業後、ライター、脚本家を経て監督業に転身。『真昼の用心棒』(66)でマカロニウエスタン、『女の秘めごと』(69)でジャッロを監督。その後、『幻想殺人』(71)、『マッキラー』(72)など権力を持った階層、集団への批判を込めた風刺的作品を撮り続ける。その後、世界的大ヒットとなったジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』に便乗して続編を名乗って作られた『サンゲリア』(79)が大ヒットを記録したのを皮切りに、『地獄の門』(80)『ビヨンド』(81)『墓地裏の家』(81)など残酷描写に特化したホラー映画の傑作を連発して残酷ホラー映画の巨匠としてのポジションを得る。元々糖尿病に悩まされていたフルチだが、『ルチオ・フルチのマーダロック』(85)撮影後、肝硬変という大病を患い、それ以降高額な医療費を支払うため、どんな仕事でも受けるようになる。また、80年代後半になるとイタリアのホラー映画ビジネスが崩壊し低予算の仕事しか来なくなり、低予算ホラー作品の連発を余儀なくされる。日本では、この時期の作品の多くが「ルチオ・フルチの~」というタイトルでビデオ発売された。『怒霊界エニグマ』(87)『ルチオ・フルチの新デモンズ』(90)などの多くの低予算ホラー作品を撮った後、主役のホラー映画監督役を自ら演じた『ナイトメア・コンサート』(90)が話題になる。遺作は『ヘルクラッシュ!/地獄の霊柩車』(91)。1996年死去。死因は糖尿病の注射を打ち忘れたためと言われるが、自殺とみる説もある。

マリオ・バーヴァ特集

ティム・バートン、クエンティン・タランティーノ、マーティン・スコセッシ、
デヴィッド・リンチ、ギレルモ・デル・トロ・・・
数多くの映画監督たちに影響を与えたイタリアン・ホラー映画の父マリオ・バーヴァ。
日本初紹介作品を含む彼の名作・傑作選(9本)!

モデル連続殺人!

イタリア映画の大きなジャンルであるジャッロ映画の代表作。幻想的な映像美、謎の殺人者による残酷な殺人とジャッロ映画の原型を完成させた本作はダリオ・アルジェントをはじめ、多くの後続監督たちに大きな影響を与えた。ファッション・モデルの美女が謎の覆面をした殺人者に殺された。捜査が進むなか、殺害されたモデルの日記が発見される。モデルたちの内部事情まで詳細に記されたその日記は仲間のモデルの手に渡るが、日記を手にしたモデルたちは次々と殺されてしまう。

知りすぎた少女

ダリオ・アルジェント監督『サスペリア』に代表されるイタリアのスリラー映画のジャンル“ジャッロ”映画の原点と言われるミステリー。20歳のノラは飛行機で偶然隣り合わせた男からタバコをもらう。だが、男は空港に着くや否や、麻薬所持の容疑で逮捕される。そしてノラの周りでは不可思議な事件が起こり始める。知り合いが死に、強盗に遭い、人が殺されるのを目撃し…。彼女はすべてが幻覚ではないかと疑い始める。

白い肌に狂う鞭

名優クリストファー・リーを主演に迎えたマリオ・バーヴァの代表作。殺されたはずの夫の兄・クルトが毎晩現れ、若く美しい妻ネベンカの肌に鞭を振るう。ネベンカは酷い悪夢だと周囲に悩みを打ち明けるが、彼女の肌には不思議と打たれた跡が残っていた。クルトはまだ生きているのだろうか。一族はさらなる悲劇に見舞われる――。美しい映像の中でサドマゾの猟奇を描いた傑作ホラー。本作でマリオ・バーヴァはカラー作品のホラー映画でも大きな評価を得る。

About Mario Bava
マリオ・バーヴァ

イタリアン・ホラーのみならず全世界のホラー映画に大きな名前を残した、イタリアン・ホラー黄金期を作った巨 匠。1914年サンレモ生まれ。映画カメラマンであった父親の影響を受け、撮影技師として映画界入りする。1939 年には撮影監督になり、1957年には長編映画監督となる。1960年に撮ったモノクロのゴシック・ホラー『血ぬられた墓標』はホラー映画史に残る名作となる。その後『白い肌に狂う鞭』などのカラー作品のホラー映画でも高い評価を得る。1963年の『知りすぎた少女』は、その後大きな映画のジャンルとなる”ジャッロ映画”の初めての作品となり、1965年の『バンパイアの惑星』はリドリ-・スコット『エイリアン』に、1966年の『呪いの館』はジャパニーズ・ホラーを始め多くの映画監督たちに大きな影響を与える。1971年の『血みどろの入江』はスプラッター 映画の最初期作品と言われ、後に『13日の金曜日』シリーズを始め、多くのフォロワー作品を生み出す事になる。1976年の『ザ・ショック』が遺作。1980年死去。息子は『デモンズ』シリーズで知られるホラー映画監督ランベルト・バーヴァ。

ダリオ・アルジェント 初期監督作

四匹の蠅

忍び寄る人影と連発する怪事件…青年を追い詰める者の正体は?鮮血の魔術師とも称されたダリオ・アルジェントの監督3作目となるサスペンススリラー。ロックバンドのドラマー、ロベルトは、黒いハットの男に付きまとわれていた。ある夜、執拗な嫌がらせに腹を立て男に詰め寄ると、はずみで彼を殺してしまう。その現場が覆面を被った人物に撮影され、脅迫電話や不可解な殺人事件が次々と周りで起こり始める。

About Dario Argento
ダリオ・アルジェント

映画製作者の父とカメラマンの母の間に生まれ、自然と映画に興味を抱くようになる。古典、作曲を学んだ後、映画評を投稿。ローマの新聞パエーゼ・セラの映画批評を担当するようになる。フリッツ・ラングの作品に影響を受け、サスペンスやホラーに傾倒。67年にベルナルド・ベルトルッチと共同でセルジオ・レオーネ監督の「ウエスタン」の原案を書いたのがきっかけで、以後戦争映画やマカロニウエスタンの脚本を手掛けるようになる。68年の『ある夕食のテーブル』の脚本がチタヌス社のプロデューサーに注目され、69年に「歓びの毒牙」で監督デビュー。75年の「サスペリア2」ではシッチェス国際恐怖映画祭でグランプリを受賞。77年の「サスペリア」がイタリアで驚異的ヒットとなり巨匠の仲間入りを果たし、80年の「インフェルノ」でハリウッドに進出。プロデューサーとしての活動もさかんで、ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」、ランベルト・バーヴァの「デモンズ」などの製作をつとめた。「サスペリア2」の主演女優ダリア・ニコロディとは公私ともにパートナーだったが、別離。娘のフィオーレは「フェノミナ」等に出演、アーシアは現在のイタリア映画界に欠かせないトップ女優となった。

ミヒャエル・ハネケ 初期監督作

ファニーゲーム

2001年のカンヌ映画祭でグランプリを獲得したミヒャエル・ハネケ監督の97年の作品。そのあまりにも挑発的で暴力的な内容に世界各地で物議を醸した衝撃の問題作。穏やかな夏の午後、バカンスのため別荘へやってきたショーバー一家。そこにペーターと名乗る見知らぬ若者がやって来る。はじめは礼儀正しいペーターだったが、仲間のパウルが現れる頃には態度が豹変。やがて2人は皆殺しを宣言し、一家は彼らによる“ファニーゲーム”の参加者にされてしまう。

About Michael Haneke
ミヒャエル・ハネケ

1942年生まれ。3歳の頃、家族でオーストリアに移住。ウィーン大学在学中に哲学、心理学、演劇を学ぶ。1967年からはドイツのテレビ局に勤務したのち、1970年に独立して映画監督・脚本家に。『セブンス・コンチネント』(89)で劇場長編デビュー。『ファニーゲーム』(97)で初めてカンヌ国際映画祭コンペ部門に招待され、その衝撃的な内容で物議を醸した。以来カンヌの常連となり、『ピアニスト』(01)で審査員特別グランプリを受賞、『白いリボン』(09)、『愛、アムール』(12)でパルム・ドールを2度獲得した。破滅や暴力を淡々と描写し、後味が悪く不快感を誘う作風が特徴的な一方、人間本質を鋭く炙り出す手腕が高く評価されている。

ジャパニーズホラーの逆襲

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